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なぜコワーキングスペースをはじめたのか。



コワーキングスペース,杉並区,西荻窪,吉祥寺,荻窪,中野,高円寺,阿佐ヶ谷,三鷹,東京

factoriaを運営しています、佐藤仁美と申します。

古くからの友人から、factoriaをオープンするに至った背景を書いたらと背中を押して頂き、今回綴ることにしました。

こうやって自分の考えを公の場にて公開するのは、なんとも自分の裸を見られているようで、恥ずかしい気分です。が、、、自分の言葉で綴らせてもらえる機会があることは有り難いことなので、今回は、私がなぜfactoriaをオープンするに至ったかということについて綴らせて頂こうと思います。

少しばかり長旅になりますが、お付き合い頂けると嬉しいです。

それでは、長編の旅へ....

1982年、大分県大分市にある老舗飲食店の第一子、長女として生まれ、幼い頃は看板娘としてお店の従業員さんからお客さんから「かわいい、かわいい」とお褒めの言葉を頂きながら大変可愛がられ育ちました。また、両親がレストランの目の前にある医大に通う苦学生や外国人留学生を面倒見ていたこともあり、両親の哲学を肌で学びました。

可愛い看板娘もつかの間、男の子や上級生とも体当たりけんかするくらいやんちゃな幼少期を過ごし、高校卒業と共に福岡へ進学の為に引っ越します。

幼少期から食に対して興味が深かったので、専門的な栄養学を学ぶ為に福岡の中村学園大学短期大学部に入学し、一番の目的であった薬膳を学ぶこと以外は、もっぱら遊ぶ毎日でした。

卒業後は、製薬業界で外務栄養士として就職、2年後に退社。

ずっと夢であった飲食ビジネスを始めることを目標にアルバイトを掛け持ちし、会社設立に必要な資本金を貯めました。

そして、26歳の時にHAM株式会社を起業。

先ずは、大分県庁のインバウンド調査事業からスタートし、その後、赤坂と表参道での飲食ビジネスをしました。

28歳で表参道店を立ち上げ、赤坂との両立で3時間睡眠2年間休み無しで必死に働いた結果、少し体調を崩してしまいました。

とにかく軌道に乗せる為に必死で働いていたので、多少調子が悪くても自分のことを振り返る考えも無かったように思います。

身体の不調をごまかしごまかしでやってきていましたが、遂には心も疲れ果ててしまい、順調になる売上とは反比例し、このままで良いのか?という漠然とした不安がつきまとっていました。

本当は飲食ビジネスがやりたくて始めたはずなのに、大好きだったのに。売上、利益共に充分満足いく結果を出せ、コンフォートゾーンにいる私という存在が私にとってはあまり魅力的ではありませんでした。とにかく、心と身体とが全部バラバラ。

会社のトップである私がそんな状態で良い仕事ができるはずがありません。私がこの状況から抜け出さないと、スタッフも同じ道を歩むことになる。それはダメ。

そして、一つの決心をしました、それは、店長に現場の全決裁権を渡すこと。若手スタッフが育っていかなければ会社の次の一手は無いと考えていたので、売上が下がっても良い、休みを増やしても良い、ある程度蓄えはあったので幾つかの失敗はしても良い、任せることを決めたのは私だから、責任は全て取る覚悟は出来ていました。

だから、自分の頭で考えてトライして欲しいと考え、私は店長チームのサポートをしようということで1年間かけて会社の体制を整えていきました。

私が現場から離れてもある程度の売上は保ってていたこと、そして次の一手を考えていた際に、弟が飲食ビジネスに対して強い想いがあったこともあり、全てを新しいチームでやることでお店(事業)が飛躍し、ずっと残っていってくれたらいいなと考え、事業譲渡しました。

実はここからが大変で、この時点では、何がしたいかわかっていなかったんです。(トホホ….)

お店を残すためには何が最善なのか?しか考えていなかったので、自分の次の一手を見つけられずに1年弱ぐらい悲劇のヒロインを演じているかのような毎日を過ごしていました。

今になってみれば、お店を離れる決断をしたのも自分の決断で、自分が決めたことじゃない!と思うのですが、当時付き合っていた友人も9割近く音信不通や無断キャンセルが多々あって、人間不信という症状を自分で決めていたんだろうなと、傷ついて悲しんでいる世界に閉じこもっていたかったんだろうなと思います。

今の自分があるのは過去の自分が決めた結果なのに、変な考え方だったな〜って。

1年弱も家に閉じこもっていたので、そろそろ出掛けようということで、人出の無い大自然に毎週のように通っていました。

私と彼の二人だけのBBQ写真をSNSに投稿していたら、それを見た友人達が集まるようになり、そのまた友人を連れてきてと1年間で多国籍200名の規模のBBQコミュニティーが出来上がっていました。

最初は人が怖いと思っていたけれど、皆の笑顔から元気をもらえたこと、考えや文化が異なる人達との出逢いで新たな軸を持つことが出来たこと….とても嬉しかった光景や皆の笑顔が鮮明に蘇ってきます。

私って、こうして様々な価値観の人が交わる環境を創ることと、みんなの喜ぶ顔を見ることが好きだったんだと思い出しました。

そして、笑顔だけでなく関わる人達の喜怒哀楽に寄り添っていくことが好きだったんだということ。

まぁ、簡単に言うとお母さん的存在な居場所をつくりたいと思いました。

今まではお店があったから、そこに人が集まり、繋がりが生まれていった。

お店を手放してみて、とても辛かった。なくなって初めて気づいたものの大切さ。

そして、やっぱり「人々が集い、繋がりが生まれ、喜びが生まれる環境」が私の大好きな場所だったということ、そしてそんな場所を一番求めているのは私なんだということ。

やっと私のやりたかったこと、求めていた、「本質」を見つけることが出来ました。

私の夢は、人が集い、繋がりが生まれ、喜びが生まれる環境を国内外につくること。

そんな環境に必要な要素は、「集う場所と集う人達(コミュニティ)」の2つ。

集う場所の意味するものは、どんな事業を行うのかということにも繋がるのですが、場所の用途って、「働く場所、暮らす場所、非日常の場所(ホテル、レストラン….)」の3つしかないと思うんです。

その都度、物件の周辺環境の特長を活かしたものや課題を解決できるものとして、生み出し創っていきたいと考えています。

今、こうして文章を書いている場所、factoriaはそんな私の夢を実現する為の出発点です。

factoriaには同じ国、業種の人もいれば、違う国、業種の人もいる。

共通するのは自分らしくありたいと考えている人達ということ。

人々が集い、繋がりが生まれ、喜びが生まれる環境をつくること。これが私のこれからの生きる道です。

この夢の育てていきながら、社会や関わる人々にとって、少しでも価値ある存在と成れるように努力致します。

今まで支えてくれた全ての人々に心から感謝申し上げます。

いつも、これからもありがとう。そして、これからもよろしくお願いします。

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